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第19回 梓会出版文化賞当会では、公益法人改組を機会に新たな事業として、厳しい環境の中で優れた書籍出版を行い、わが国の出版文化に貢献している出版社の中から毎年1社を選び、その業績を顕彰する「梓会出版文化賞」を創設いたしました。 対象となる出版社は、原則として年間5点以上の書籍を刊行し、10年以上にわたり継続して出版活動を行っている中小出版社で、各出版社から自薦による図書の推薦をいただき、これを中心として選考委員会で決定いたします。 梓会出版文化賞「受賞のことば」梓会出版文化賞:人文書院「新しい文化の胎動」人文書院社長 渡邊睦久(→受賞スピーチを読む) 梓会出版文化賞をいただいて感無量です。 敗戦の混乱の中で、出版界はもとより、これからの日本に未来はあるのだろうかと、幾度も語りあったものです。 あれから五十数年、内外の絶えまない紛争を目の前にしながらも、わたし達は明日への希望を失わず、懸命に仕事に励んで来ました。戦場に夛くの友人を失ったわたしは、「いま、ここに生きていることは、どういうことなのか?」という変わらぬ問いかけ、実存の問題から企画を始めたのです。ガリマール社から、サルトルの翻訳権を得たのは、五十点を越しています。サルトルは行動する思想家で、後年、知識人の社会参加を訴えて立ち上がった人です。また、フロイトやユングの夢の分析や精神世界の分野へと企画を広げ、ブルトンなどの芸術運動にも共感を持って来ました。 時の流れ、季節の交替は、思いのほか早く激しく、はやされた思想すら、遙かに遠く過ぎ去ります。だが、夛くの読者に取り込まれたもろもろの痕跡は、小さな核となり、やがて新しい文化の胎動につながっていくでしょう。わたし達の出版の役割りは、そのあたりにもあると信じます。有難うございました。 梓会出版文化賞 特別賞:金の星社「平和の尊さを伝える」金の星社社長 斎藤健司 弊社は童謡童話雑誌『金の船』(のちに金の星)を大正8年に創刊してより今日まで、一貫して子どもの本の出版に情熱を傾ける専門出版社です。創業者斎藤佐次郎や初代編集長の野口雨情ら先人達の思いを継承し、子ども達が笑顔で希望を持って生きる、そんな当たり前のことを願って日々出版活動に精進しております。本賞の選考理由として、平和の尊さを伝えたいと弊社が長年取組んでまいりました戦争児童文学と、近年社会問題ともなっています、子ども達の心の傷みを浮彫りにした作品群を評価していただいたことをたいへん嬉しく思っておりますとともに励みにもなり、社員一同、意を新たにいたしているところでございます。 少子化に歯止めはかからず、子どもの本の読者は減少の一途。楽観的とは程遠い状況の中、この数年の出版界を挙げての読者推進活動が功を奏し、本好きの子ども達が確実に増えてきました。十年後には梓会加盟出版社の皆様にとりましても立派な読者となるであろう子ども達です。もはや児童図書出版社の凋落は他人事だなどと言う声も聞こえて来なくなりました。いま未来の読書人を作る仕事に大きなエールを贈られている思いです。
意欲的な出版活動に第十九回梓会出版文化賞によせて上智大学教授 植田康夫 昭和六十年度から発足した梓会出版文化賞は、平成十五年度で第十九回を迎え、次回は第二十回で節目の回となる。ちなみに、第一回の文化賞は弘文堂、特別賞は理論社に授与されているが、それ以来、営々として優れた出版活動を行う出版社を顕彰し続けてきた梓会出版文化賞であるが、第十九回は文化賞に人文書院、特別賞に金の星社と決まった。選考に当たったのは、石川弘義、植田康夫、上野千鶴子、小原秀雄(五十音順)の四人であったが、選考を終えて、改めて過去の受賞出版社のリストを点検してみると、第一回の選考の際、受賞出版社以外に第二候補にあがった出版社八社の中に人文書院の名前もあった。 同社は、その後も第八回、第十二回でも第二候補にあがっているので、今回の受賞は改めて感慨深いものがあるが、人文書院は一九二二年(大正十一年)に京都で創業し、一貫して創業地での出版を行ってきた。社名が示すように、戦前は心理学を中心に、文学、哲学、宗教関係など、人文科学系の学術的、啓蒙的な書物を刊行したが、戦後はフランス、ドイツ文学の重要な作品を次々と刊行した。なかでも、サルトルやボーヴォワールの著作を積極的に刊行し、わが国における戦後の思想や文学に大きな影響を与えた。そして、フロイト、ユングをはじめとする心理学、精神医学などの翻訳書を刊行し、宗教、歴史、民俗、人類学などの人文科学以外に、芸術、自然科学、社会科学などのジャンルにおいても意欲的な出版を行っている。 本年度も、谷崎潤一郎の文学を異邦への夢という面から論じた野崎歓著『谷崎潤一郎と異国の言語』、明治の浄土真宗仏教者である清沢満之を西洋哲学者の視点から追求した今村仁司著『清沢満之の思想』、ユダヤ教の改宗者と隠れキリシタンの運命を重ねあわせて「内在の思想」「隠れの思想」の可能性を論じた小岸昭著『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン』などを刊行している。そして、人類学の第一級の基本文献とも言えるジェイムズ・クリフォード著、太田好信他訳『文化の窮状』なども刊行しており、こうした業績が評価されての受賞であった。 次に特別賞の金の星社は、一九一九年(大正八年)の創業で、児童書の出版社としては最も古い歴史を持っているが、同社は童謡童話雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)を創業と同時に創刊した。そして、同誌の初代編集長の野口雨情をはじめ、島崎藤村、有島生馬、若山牧水、西条八十、竹久夢二、中山晋平らが集い、日本における児童文化の成立に寄与してきた。その実績に基き、子供たちの心を豊かにし、成長の糧となる良書の出版を行い、この伝統を引きつぎ、平和の豊かさ、自然の大切さをテーマにした作品や現代の様々な社会問題の中で成長していく子供たちの生活と姿を描いた内外の児童文学を刊行し、高く評価されている。 そのため、東京大空襲の悲惨さを描いたロングセラー、高木敏子・作、武部本一郎・画『ガラスのうさぎ』のスペイン語版とタイ語版が、続けて刊行された。また、本年度の新刊では、祖父の死に直面した少年の心情を描いたオランダの絵本であるベッテ・ウェステラ・作、ハルメン・ストラーテン・絵、野坂悦子・訳『おじいちゃん わすれないよ』が第五〇回産経児童出版文化賞大賞を受賞し、ドッグトレーニングを通して更正した少年たちを描いたノンフィクションである今西乃子著、浜田一男写真『ドッグ・シェルター 犬と少年たちの再出発』が第四九回青少年読書感想文全国コンクール・中学校の部課題図書に選ばれているが、こうした出版姿勢を特別賞に価するものとして、選考委員会では評価したのである。 このように優れた出版活動を行っている出版社を讃える梓会出版文化賞への積極的な自薦をお願いしたい。 社団法人出版梓会・出版文化賞贈賞式における受賞スピーチ04年1月15日:株式会社人文書院 代表取締役社長 渡邊睦久氏今回、伝統のある梓会出版文化賞をいただきまして、誠に恐縮しております。長年やってきましたが、大した仕事もしていないと思っておりましたので、このような賞をいただき、本当に光栄に思っております。 人文書院という名称は、先ほど植田先生からご紹介がありましたように、京大の医学部精神科の今村新吉先生が名付け親でした。それで、やはり精神医学とか心理学の方面から大正の終りに出版を始めました。その頃、清水正光さんという編集者がいまして、その方は川端康成さんと同人雑誌を一緒にやっていた関係で、文芸のほうへも次第に企画を拡げていったわけです。 昭和15年だったと思いますが、太宰治の3番目の短編集『思い出』が出ております。太宰が注目を集め出した頃の作品で、評判がよかったですね。その頃の新進作家、中村地平とか徳田一穂、外村繁、それから舟橋聖一。そのような方も出ておりますし、お弟子さんが3000人とかおっしゃっていた佐藤春夫の随想集なども刊行しております。 その頃の出版で、一番記憶に残っておりますのは、旧制浦和高校の国文学の先生でした藤田徳太郎さんの『近代歌謡の研究』です。これは江戸時代の庶民の歌と踊りを系統的に集められた論考なのです。木版画もだいぶ使いまして、大変豪華で残る本だろうと思っておりましたが、最近古書の値段が10万でもなかなか手に入らないようです。 私は昭和18年12月に学徒兵にかり出されたわけですが、発表があって入隊までの1年ばかりの間、切迫した時間の中で、本当に毎日読書を専一にやりました。もちろん上野の美術館へもよく通いました。あれほどの気迫に満ちた時間は、ちょっと現在では考えられないくらいです。それだけに戦後の空虚感は今では想像もできないくらいでした。 ちまたには軍隊から帰ってきた学生たちが虚無的な行動に出たり、都市の荒廃した焼跡と共に、大変な世の中になっておりました。彼らの持っていきようのない鬱憤と虚無感の中には、やはり生き残ったつらさがあったわけです。友だちをたくさん失っていますから、そういう負い目を背負って生きているわけなのです。 私は、そういう実存の問題を掘り下げてみたい。その辺をやはり西洋哲学であってもいいから、紹介する役目があると思いまして、いろいろ探しました。それがキルケゴールの全15巻の選集になるわけです。主著『あれか、これか』など、わりかた広く読まれたと思います。キルケゴールはご存じのようにデンマークの哲学者ですが、哲学用語が大変難解で、『死に至る病』とか、『不安の概念』などは、ちょっと読み通すことができなかったと思います。 ですから、もう少し文学的な広がりのある作家はいないだろうかと、いろいろ探していたのです。ちょうどその頃、桑原武夫さんにパリにまだいらっしゃった高田博厚さんを紹介していただきました。高田さんからはいろいろなニュースと共に、新刊も送っていただきました。高田さんはご存じでしょうが、ロマン・ロランの胸像なんかもつくっておられる、向こうでも名前の通った彫刻家でして、出版社のグラッセの主人とも親しかったのです。全く願ってもないご縁でした。 ですからその頃いちばん評判のよかったサルトルとカミュについても、いろいろニュースをいただいたわけです。サルトルはもともと、ハイデッガーを研究していた哲学者ですが、『存在と無』という実存哲学の大著と並行して小説『嘔吐』を書いているのです。それに評論は当然のことですが、戯曲も状況劇と申しまして、特別な状況を設定して、微妙な対話の中で劇を進行させる非常におもしろいドラマも書ける人でした。 そのような多才な作家ですから、ぜひに私のほうでやりたいと思いまして、版元のガリマール、それからサルトルがやっていた雑誌『現代』あたりにも働きかけました。 ガリマールはなかなか商売人でして、それまでに既刊11冊出ているのですが、それを一括で契約してほしい。前払い金は65万だとパッと申してきました。その頃(敗戦から5年目)の65万は大変な大金です。期待が持てる作品はあるのですが、11巻と言いますと、日本では未紹介の作家ですから、自信はなかったのです。先物買いの賭けみたいなものになりますが、目をつぶって契約しました。批判もあっただろうと思います。やはり大きな企画は競争社会の中で、隊列から一歩前へ出る気持ちがないとできません。 第1回配本は『自由への道』でしたが、初版1万部。それを日販の仕入へ持っていきました。当時、仕入課長だった増田さんがそれを手にするなり「これは初版全部、私のほうで扱わしてくれませんか」と言うのです。その度胸と勘の良さには脱帽いたしました。増田さんはそののち役員までなられた方ですが、いつも啓発されるようなことを言っていらっしゃいました。 サルトルは順調に進みまして、予想以上によく読まれました。それは結局戦争による心の傷を皆さん持っていたわけでしょう。 1966年頃になりますと、アメリカがベトナム問題に介入してきまして、現在のイラクの状況と似たような情勢になってきました。それに加えて、日本国内では、ベトナムに平和をのぞむ反戦運動と、学園問題の予兆が現れてきます。そのような状況の中で、サルトルならどのような発言をするだろうか、その生の声を聞きたかったものですから、慶応大学と組みまして招へいすることにしたのです。 いろいろな条件を突き合わせて来てもらったわけですが、その中で慶応と日比谷公会堂と、それから京都会館の3回の講演は、その総タイトルが「知識人の擁護」でした。簡単に内容を申しますと、向こうでは資本家といえば大資本家なのですが、知識人は資本家と大衆との間で不安定な状態に置かれていて揺れ動いている。ややもすると資本家の代弁みたいなことを言うけれども、そのような番犬になってはいけないというのです。ベ平連での集会でもなかなかアクティブな発言をしていました。 そういうこともありましてサルトルとボーヴォワールとはわりかた親しく、ほとんどの著作は私のほうで出ております。50点を超したと思います。 サルトルは状況に応じ、的確な発言をしますが、なかなか繊細で細かいところに気がつく温かい人でして、女性に取り巻かれていたという話です。1980年4月に亡くなったのですが、モンパルナス墓地へ向かう葬列が5万人からの見送りで、なかなか動きが取れなかったと聞いております。政治家から労働者まで、あらゆる階級の人が別れをおしんだのでした。 私のほうはこのように戦後は翻訳出版からはじめました。そもそも、戦争の経過を考えました時、わたしは戦争の原因の一つに、文化の相互理解が足りなかったことを痛感したわけです。 鴎外が翻訳を始めてから昭和20年に至るまで、50年くらいしか経っておりません。西洋文化の紹介といっても微々たるものです。それだけに、西洋2000年の文芸や思想の奥深い山なみは、大きな宝の山にみえました。私のこれからの企画は、文化の相互理解に役立つ、翻訳出版を地道にやっていきたい。その方向付けが次第にかたまってきたのです。 戦後の読書界は、戦争による精神的飢餓の反動からか、息の長い好況が続いていました。そして1970年頃までは目配りのよい個人全集は、それなりの読者がついてくれました。ランボーやボードレール、ゲーテ全集も刊行しました。カトリック作家のジュリアン・グリーンとか、フロイトやユングまで手を広げております。 しかし日本の作家を敬遠したわけではありません。例えば雑誌『新潮』に小林秀雄さんの『近代絵画』の第1回の発表がありまして、私はそれを読むなり、これはぜひうちに欲しい、初めて日本人のオリジナルな西洋美術史が出たのではないか、これは大事にしていきたいと思いまして、すぐに小林さんのところに電話をしたのです。小林さんはああいう方ですから、私の希望を黙って聞いていて、『分かった、きれいな本にしてくれるなら君のところでやってくれてもいいよ』と簡単に承諾されまして、ちょっとお礼の言葉も見失うような気持ちでした。 それだけに本作りに気を使いました。その頃、印象派の実物が国内ではあまり見られないものですから、その時点で向こうで見てこられた方、宮田重雄さんとか今泉篤男さんに色校正をしてもらった記憶があります。 カバーにはドガの『踊り子』、本文中にルノアールの『裸婦』の色図版を使いましたが、あの微妙なグラデーションには、退色の心配があります。インキ屋さんの工場へわざわざ行き、無理を言って、顔料から特別にインキをつくらせたりしました。苦労は楽しい思い出になります。 福永武彦さんは好きな作家ですから、何冊かやりまして、訳詩集なんかも評判のよい本に仕上がりました。やはり本を売るだけの苦しみではなしに、つくる楽しみを先生方から教えられたのは幸せです。現在は間村俊一さんにいろいろお願いしています。あの方は非常に色使いのいい方で、流れる音楽のハーモニイのようなものを私たちは感じて喜んでいます。 振りかえりますと、結局のところ、迷いに迷って現在に到達したのではないでしょうか。今回の受賞はそういう私たちへの、大きな励ましと理解させていただきます。これからもいろいろと苦しいことがありましょう。どうぞ皆さんのご声援をお願いする次第でございます。ありがとうございました。(拍手) |
